120 柏原から八幡神社まで
2009 / 03 / 17 ( Tue ) (ダウンロード用地図は準備中)
![]() 中山道通算32日目。ホテルから長浜城の前を通って長浜駅へ。今日はお昼食べるところがなさそうなので朝、お昼用におにぎりを買って長浜から電車で米原へ。帰りは米原から新幹線なので、米原駅のロッカーに不要な荷物を預けて身軽になって柏原へ。柏原の駅から中山道まで戻り、再スタート。今日は最初雨の予報だったが、曇り、午後から晴れの予報となり、嬉しい。 ![]() その先、右手にある柏原宿歴史館が昨日立ち寄ったところ。そのさきには問屋場西の荷蔵跡がある。東海道、中山道と歩いてきたが、問屋場の荷蔵というのは初めて耳にした。考えてみれば荷物の中継ぎをするのがから、荷蔵があって当然なのだろう。ここではきっと艾も発送されていたのだろう。 ![]() ![]() 車が殆ど通らず静かな道で歩いていて気持ちがいい。遠くから国道を走る車の音が聞こえてくる。民家の庭先で猫が三匹いたので声をかけたら一匹は駆け寄ってきてくれた。街道沿いに松並木があるが、このあたりでは並木と言わず、「松並び」と呼ぶらしい。道がカーブしていて集落に入ると右手に白山神社がある。鳥居の前の福寿草がちょうど満開。中山道はその先、小川の関の碑で右の野道に入る。湿った枯葉のつもる静かな道だが、廃車が何台も捨ててあった。300メートルくらいでまた元の道に合流する。右手にお地蔵様を祭った祠がある。うん?お地蔵様?いや、石を積み重ねて涎かけをかけてあるのがたくさん並んでいる。一見して、地蔵、と認識するのは涎かけのせいだろうか。とても可愛らしい。その先、またお地蔵様。慈圓寺、八王子神社を過ぎると道は川沿いとなり、桜並木、そして松並木となる。 ![]() やがて道は左手の国道に合流する。国道を300メートルくらい歩くと左手に中山道の碑があり、そこから国道に分かれ、また静かな道になり、玄関先に切干大根を干している家がある。すぐ右手に八幡神社があり、ここのベンチで一休みすることにした。街道を歩いていると寺院は一休みしにくいが神社はどこかしら座れる場所があって休憩しやすいような気がする。それに神社はたいてい木立があるので日よけや風よけにもなる。 |
118 六部地蔵から常磐御前の墓まで
2009 / 03 / 16 ( Mon ) (ダウンロード用地図は準備中)
![]() 六部地蔵を過ぎるとやがて左手、国道の向こうの丘に幟が見えてくる。家康が関ヶ原の戦いのとき、最初に布陣した桃配山だ。このあたりから道標などに関ヶ原の合戦関連の案内が多くなる。事前に関ヶ原町に「中山道関連の資料が欲しい」と連絡したら、「うちは関ヶ原の合戦関連のものばかりですが・・」と言われてしまった。それでも関ヶ原宿の資料を送ってくれたが、同じ関ヶ原町内の今須宿に関するものは全くなかった。 さて、中山道は一ツ軒(ひとつや)の交差点の手前で一度国道21号線に出るがまたすぐ一本裏の道となる。 車も通らず犬が日向ぼっこする通りをのんびり歩いて行くと、また国道21号線に合流して関ヶ原宿に入る。 若宮八幡、法忍寺、脇本陣跡をすぎ、国道365号線との交差点で中山道から少し外れてお昼を摂ることにする。 インターネットで見つけた、伊吹という地元ファンの多いレストランに入る。和・洋・中となんでもあるところ。パスタランチを頼んだが、素材もよくていておいしい。サービスもきちんとしているので確かに地元ファンが多いのもうなずける。ボリュームはちょっと多くて残してしまった。いつもなら全部食べてしまうのだが、今日は夕食に天然鴨の鍋を予約しているので、申し訳ないと思いつつ腹八分目でとめておいた。 食後また中山道に戻って国道を行くと右手に西首塚がある。これも関ヶ原合戦の時のもの。 ![]() 不破の関東城門ー上りー不破の関跡ー下りー不破の関西城門と距離が長く、非常に規模が大きかったことがうかがえる。後で調べたら、発掘の結果、12万平米あったとのことだから、後世の「関」の概念でとらえるより、むしろ砦としての機能のほうが大きかったのだろう。 不破の関は789年に廃止されているので、江戸時代はすでに歌枕としての遺跡となってから1000年経ていて、当時の旅人にとっては見物する対象だったのだろう。 さて、中山道は国道に出て歩道橋を渡り、斜めに国道を横切るようにして続き、山中集落に入って行く。 ![]() 静かな道を進んで行くと左手に川が見え、鶯滝がある。でも残念ながらフェンス越しなので風情がない。その先で新幹線のガードをくぐり、車も殆ど来ない春ののどかな道を気持よく歩いて行くと常盤御前の墓がある。 道がのどかだと犬の日向ぼっこによくであう。 |
117 垂井から六部地蔵まで
2009 / 03 / 16 ( Mon ) (ダウンロード用地図は準備中)
![]() ![]() ![]() また中山道に戻って進むと右手に旅籠の長浜屋が御休み処になっていて親切にいろいろなパンフレットをくれて説明してくれた。お礼を言ってその先の本龍寺へ歩いて行くと長浜屋からボランティアの人が追ってきてくれて本龍寺の門は元脇本陣のものを移築したものとか、ここが高札場だったことなどを解説してくれた。 西の見附で垂井宿と分かれ、中山道を進む。雲がきれ、晴れ間が広がり暖かくなってきた。東海道本線の踏切を渡って国道21号線の日守の交差点を歩道橋で横切る。このあたりは「この道は中山道です」の標識があった分かり易い。 ![]() ![]() てくてくと歩いてみて並木が旅人に涼しい木陰や雨避け、そして憩いを与えてくれるのを実感する。やがて左手にベンチと六部地蔵が見えてくる。 |
116 兜塚から垂井駅まで
2009 / 03 / 05 ( Thu ) (ダウンロード用地図は準備中)
![]() ![]() 中山道の右手には明秀寺、ちょっと奥まって如来寺があり、昼飯町の信号の先で東海道本線の線路のガードをくぐる。この昼飯(ひるい)町の由来については方々に書いてあるが、昔善光寺如来が浪速の海で拾い上げられて信濃の国善光寺へ送られる途中、ここで昼飯のため休息されたという故事からだというが、それなら、日程の数だけ昼飯という地名が残りそうなものだという気がする。 ![]() 中山道は道なりに進んで行くと左手に浄瑠璃の小栗判官に出てくる照手姫水汲みの井戸があり、右手には義経伝説のよしたけ庵跡がある。その先、大谷川をわたり、変形十字路を直進して道なりに行くと国分寺道の常夜灯が右手にある。ここでせっかくなので、美濃国分寺跡を見に行くことにした。 どちらかというと、太宰府政庁跡、多賀城址など、礎石だけの古代の遺跡は想像をかきたてるので楽しい。美濃国分寺跡も広々した敷地を見ただけでも当時の規模や威勢が偲ばれた。時間がないので、その先の資料館はあきらめた。 ![]() 今日は結局最後の1時間だけ雨に降られたが、それまではなんとか天候ももち、寒くもなく楽しく歩くことができた。 |
115 七回り半から兜塚まで
2009 / 03 / 03 ( Tue ) (ダウンロード用地図は準備中)
![]() ![]() ![]() ![]() 私たちはここで、うどんのお店を見つけたので、お昼にすることにした。昨日のお昼のひつまぶしはおいしかったが、重すぎたので、麺が食べたい、と思っていたのでちょうどよかった。「麺茶房」とあり、お店は確かに和風だが喫茶店の雰囲気もある。奥の席に案内され、メニューをみたら、讃岐うどんとあって嬉しい。注文してまわりをみたら、壁一面にレコードのコレクションと真空管のオーディオがある。どんなコレクションなのかな、と見ていたら、なんと!フルトベングレーの素晴らしいコレクションがある!思わず「まあ、フルトベングラーだわ!珍しい」と声をあげたら、おかみさんがニコニコしてご主人を呼び、さっそく、ベートーベンの英雄のレコードをかけてくれた。フルトベングラーは第2次大戦後間もなく亡くなったドイツの指揮者で、録音状態にもむらがあるらしい。私はカラヤンよりベーム、それにフルトベングラーのほうが、ずっと深みがあって聞いていて楽しく感じる。思いがけず素晴らしい音楽を聴きながらおいしい麺をいただいた。お店は昨年9月にオープンしたばかり、「中山道を歩く人がフルトベングラーを知っているとは思わなかった」と御主人はニコニコ。そのコメントは?だが、バッハが好き、というご主人はきっと常連さんたちがあんまり音楽に関心がなさそうなのでその点はちょっとさびしいのかもしれない。でも、オープンして3か月くらいで裏通りなのに常連さんも多そうで地元に根付いているお店のようだった。 ![]() 少し脇道に入り、お茶屋屋敷跡を訪ねた。ここは4-5月頃のボタンの季節には公開されているが、個人所有の家になっている。幸い門も開いていて、庭園を歩くことができた。また中山道に戻り道なりに進むと左手に関ヶ原の戦いで戦死した武将を祀る兜塚があり、ここが赤坂宿の西の御使者場跡となっている。 |